太平洋フェリーアスベスト被害訴訟で勝利的和解

一等機関士・機関長として働いてきたAさんは、石綿肺・肺線維症を発症し、2012年、船員保険に職務上の継続療養を求めた受給届(いわゆる労災申請)が不承認(不支給)となりました。元々所属していた船員組合に相談しましたが、退職者であることから相談に応じてもらえず、患者と家族の会に相談し、関西センターの協力を得て2013年6月に職務上認定を勝ち取りました。その後、企業補償を求めたいと、2015年9月にアスベストユニオンへ加入。同年11月末に、太平洋フェリーに要求書を提出して、3回交渉を行ってきましたが、会社は「Aさんが所属してきた企業全体で補償を負担すべき」と主張し、交渉は平行線をたどり、やむを得ず2017年8月31日、大阪地裁堺支部に3300万円の損害賠償訴訟を提訴しました。

交渉はなぜ決裂したか

団体交渉で会社は、補償については行う意思を示しながらも、「Aさんがこれまで従事してきた会社のうち、石綿ばく露の可能性がある企業全体で、補償を案分すべきだ」「補償額を交渉で決めることは、株主の理解を得られない」と主張し、交渉は決裂しました。

Aさんは高校卒業後、漁船に乗っていたこと、その後、機関士の資格を取って海運会社や船舶会社で従事してきたこと、そして一等機関士・機関長として太平洋フェリーで従事してきた。漁船については、個人でありすでにどこにあったかの記憶もないという状況で、50年も遡って9社の会社や個人を特定するのは困難でした。

しかし会社の代理人弁護士は、補償額そのものを全社が合意しなければ話が進まないと、頑なに太平洋フェリー単独で補償を支払うことを拒みました。

訴訟でも同じ主張するも

2017年8月の提訴を受けて会社は、再び裁判でも利害関係人としてAさんが働いてきた会社に裁判への参加を求めました。しかし、返事があったのは1社のみで、しかも裁判には参加しないというものでした。

その後、期日を重ねながら争点整理を行っていきました。会社は、はじめから石綿との因果関係については争わず、ただ石綿ばく露の実態についてこだわり続けました。

Aさんは、常に酸素ボンベを手放せない状況で、弁護団との打ち合わせ後、体調を悪化させたこともあり、外出を極端に嫌うようになりました。裁判も大詰めを迎える中で、Aさんは本人尋問を強く拒みました。弁護団・裁判所も、裁判所内の別の会議室でテレビによる尋問や自宅での出張尋問も提案したのですが、ことごとく拒否されました。

会社も本人尋問を強く求めましたが、「尋問するなら訴訟を取り下げる」と言うほどAさんの意思は固かったため、損害額が大幅に減額されることを覚悟し、和解へと進もうとしていました。和解を目前に控えた2019年7月16日、突然、Aさんがお亡くなりになりました。そのため、ご遺族による訴訟継承の手続きを行うとともに、関西センターの支援で船員保険の遺族請求と葬祭料の手続きを行いました。

2019年12月24日、裁判所から石綿肺と死亡との因果関係を認めた上で和解案が提示されました。会社は「和解は困難」と即答し、対案を提案。弁護団は、遺族と打ち合わせを行った上、和解を提案して会社がこれを受け入れ、2020年2月6日に裁判所で和解が成立しました。

Aさんがご健在のうちに解決することができなかったことが、悔やまれます。